あまいかな

 趣を変えて、ビールでわなく、チューハイ(レモンとグレープフルーツ)にしてみた。



 あまーい。



 しっぱいした。これはお子様の飲みモンやーーーーん!





 もったいないから飲むけど。




 オバケ(鯨の皮の湯引き)の酢味噌合えと全然合わん。

 サンマもぶつ切りにしてショウガと梅干と薄口醤油で煮たんですが(五尾で百円だった)、合わん。

 豆腐と茗荷と貝割菜とワカメのサラダ(チリメンジャコとゴマをごま油でじゅわーとゆわせてじゅわわわーんとまわしかけて、醤油かけてみた)にも!合わん。

 豚肉とナスのマーボー風とかろうじて、って感じ(豚バラってどうやっても美味い。天才)。


 しょうがないから焼酎をロックにします。


 夜のご飯ではまず米の飯は食わない。


 炭水化物は酒で摂るからね。または、あたしは朝が早いのんで、熟睡できないと体が保たないから、食べないこともある(その代わり朝は激しく食べるよ。外食の例でいうと、吉野家の特盛では足りません)。もしくは酒のみ。酒オンリー。


 日本酒はね、管理が大変なのでぬくい季節は家には置かないの。


 美味しいやつは、マジうまいけど。

 大手のんでも、鑑評会用のは、かなり美味い。樹脂のんでなく柿渋で染めた昔ながらのんで漉すのと、ぎゅうと絞らずに、自然に滴る部分だけやしね。



 そゆのは大切に飲みたいから、大切に飲める時期に飲むのん。











 なんか本業に変容が。



 なんかね、中学や高校に派遣されるのん。



 あたし、教職もってへんのん。



 なのになんでですか。




 しかも、週3回もいけば(いかへんけどな)、そこの性器のだからなんでそれが変換一番やねん、そこの正規の教師の月給に届くであろう数字を提示されました。



 おかしいって。



 なんのための教職なんだか。




 正式に引き受けるかどうかは、まだ返事してないのですが。





 あたしはこの仕事を「聖職」(これも生殖て変換するなよ、バカ)とも、「一生の仕事」とも思てへんので、というか、需要がないほど世間は良い状態にある、と思てるんで、需要があり過ぎるのは実際戸惑うねん。




 あたし自身は学校に何の期待も、ていうか国とかに対しても、あんまり期待はしてないっちゃしてないんやけどね、これはあんまりにも、おかしいんとちゃうんと思う。



 親にしても、なんか馬力なさすぎやしね。


 お金はいくらかかってもいいけど、浪人だけはさせたくない。ランクや志望学部をぐん!と下げてでも現役で、という親も多い。


 子供としんどい部分を共有する気ぃがないねんね。


 親でさえそうなんやから、他人は当然て感じ。



 まあ、本人が行きたいところがあるなら、仮面浪人でもなんでも手があるし本人次第なわけだけど、身近な人々が初手の責任も放棄してんのは、やっぱし気の毒やね。


 なので、お金的な契約が切れたところから、改めて生徒との関係が始まるときもある。



 お金さえもらわんかったら、あとはあたしがソイツに何をやってやろうと、ある程度勝手やしね。


 勝手するんも経済的な基盤がいるので、働かないといけないけどね。




 

 時たま、「都合の良い様に使われてる」という表現を耳にする。




 まあ、グチとしてやねんけどね。




 あたしは逆に


 「うまいこと、あたしをなんで利用できひんねん」


 と、ムカツクことが多い。



 同じ金を払うんやったら、ちゃんと使え。



 金を使わなくても、ちゃんと利用しなさい。



 それは、あたし、という資源の豚、いや、無駄やろが。




 ああ、昨日食った豚足が美味すぎて、どうも「豚」に走ってしまうわ。




 実家のワンコ用に豚足を買って丸二日煮込んだのであるけど、6本中4本も食ってしまってすまなかった。ごめん。



 生きる事、命を引き受けることは、その中でリターンがあってもなくてもリスクを引き受けることなんやと思う。





 犬を飼う、子供を産む、を同列に語ると怒るヒトも多いかもしれないけど、犬も子供も、自分の思った通りになるわけでなし、そこで辛い場面もあることを想定していなさすぎるのかもしれない。



 死に対しても、あたしは、身近なヒトの死を、10歳くらいの時に幼馴染がその母親に殺されるところから、断続的に経験しているけど、一向に慣れる気配はない。受け入れられない、と思うけど、生きている限りは受けとめなきゃいけないのだろう、といつも思う(思うだけだが)。



 だけど、周りの多くのヒトは想定しない、現実のものとして受け入れていない、感がする。感だけかもしらんけどね。


 だから、本人が悩みを打ち明けてくるとき、どこか本の感想文のように現実味が薄い。


 


 ような気がする。




 


 でも、目の前の生きているモノは、自分も含めて、今を生きていて、でも、明日、やはり生を共有してるとは限らない。





 そういう感覚は、たんなる自己を哀れんだり、自分の今の境遇に酔ってみたりするために使うなら、なんだか、すんごく無駄な感じがするな。



 ああ、焼酎飲み過ぎた。



 うんじゃ。


 
 


 







 
 




 て、睡眠に入ろうとした。



 ら、携帯メールで起きた。



 わくわくしてんのはわかるけど。半年ぶりやもんね。


 これで眠られへんくなったやんけ。



 そんで、つい過去の時間に飛んでみた。



 ああ、過去だなあ、と思う自分にほっとする。というか、ここまで冷たい目線で見られるんだなあ、と思うとき、その時の自分の一生懸命な思いって、なんだったんだろう?


 いくらでも理由はこじつけられるけど、


 それに労力を費やす気ぃはないけど、


 これから熱くなったとき、こんな風にパラパラ乾いていくことを、きっと脳裏のどっかによぎらせて向かっていくのだ。きっと。



 それより更に遡った昔、自分がとても青かった遠い昔のことでも「終わったこと」として処理し切れない自分もおるねんけどね。処理し切れない事柄が今のオノレを左右する。



 そのとき。


 風化していくことと、風化していかないこと。


 
 その区別は、そのヒトによって違うだろう。



 あたしの中の思いは、あたしの中では風化していかなくていい。


 だけど、あたし自身と共に風化して欲しくもある。