あきあきあきあきあき

 どんぐり拾った。


 秋やなあ。


 先日知人の法事をちと手伝いに行った。


 おじっさん(住職さん)のお話が



 『交通違反キップのバックレ方』でした。



 えーと。



 ま、いっか。










 ああ。



 1週間ぶりの更新かあ。



 バタバタと色々あった。何があったかは、ヒ・ミ・ツ。




 

 出来ちゃった結婚とか、結婚するために騙して妊娠するとか、世の中の子供作りには、色々ある。



 正直、もうちょっと考えろよ、と思う。親になるにはアホ過ぎとちゃうか、と思う。


 しかし、考えてるうちに子供を産み育てるにはキツイ年齢になっていくのは確かやし、色んなパターンで子供が出来ていく、というのは遺伝子の多様化という意味では、ちゅうか、生物学的・種の保存的見地から見れば正しいことのようにも思うから、しゃあないかなあ。


 ただ、そうやって色々なパターンで産まれて来た子供たちが淘汰されてしまうのは切ない。し、優れていない子供が淘汰される、とか、そういうんでもない。実際歴史を見ても、その時代のタイミングや巡り合わせで生かされる才能であったり、ちょっとした出会いがあるかどうかで消えていく運命もある。



 

 イジメ、はどこにでも、どの時代にも、存在はする。



 苛められるほうにも原因はある、というのは事実や。


 そして、ほとんどの人間が、苛められる可能性を内包している。それが、属する集団によって、また状況やタイミングによって表出しやすい・しにくい、というだけの違いやなあ。


 そして、どの集団も、ある種の狂気に走る性質を常に爆弾として抱えている。




 その爆弾は小さいときも大きいときもある。導火線が走り出しても、中にいると気が付かないか、気づきにくい。


 だから、学校の教師や、集団をまとめる立場にいるニンゲンは、少しそのグループから離れたところに心を置いて、暴走を止める気構えをしておく必要があるし、苛められやすいタイプを見つけたら暴走に手を出させないように留意しておかなければならないのだけど、手綱を握り締めて留めるだけの強さがなかったり、自らも暴走に加わったりしてしまうので、状況によってはかなり厳しい。自覚するのはむつかしいみたいなんである。



 あたしは比較的主婦のヒトや母親であるヒトに厳しい傾向がある。


 すごく無邪気に恐いことを言うしするから。


 その一つ一つは確かにたわいもなくて罪がない。


 でも、それがひとたび子供に向けられると、凶器になることを、そのヒトたちは気が付いていない。




 そういうとき、キツイことを言うてしまう。



 のだけど、きっと理解はされてない。


 
 子供たちが、他人に救いや信頼を求めなくてはならないのは、切ないんやけど。一方的な愛情の押し付けやなくて、受け入れる信頼を親には持っていて欲しいんやけど。



 これだけ愛情を示してるんやから、それを具体的に返して欲しい。



 そういうのはなんだかなあ。



 他人であるあたしに対してどう思おうと、それは勝手やし、かまへんが、自分の子供を抱きしめ殺すようなことだけはせんといて欲しい。



 それは虐待などとは違って、司法や行政では手を出せないだけに始末が悪いような気がする。





 そういうことを



 いつもいつも考える。



 いつもいつも。



 だけど、それは実際的には機能しないので、単なる祈りに過ぎない。






 助けて、と言える子は、引き篭もったりゴハンが食べられなくなる、と体で訴えられる子供は、まだしも強いのかもしれない。だって、他が気が付いて手を差し伸べられるチャンスがある。




 それが出来ない子供はどうするねん。







 精神的に患って、さて治りかけるときに一気に病状が戻ることがある。



 正常になったら、直面しなければならない問題がたくさんあることに気づいているから。対峙しなければならないけれど、それだけの力も周囲の援助もないことに気が付いているから。正常でないから許されている状態にいる方が、楽であるから。



 だけど、正常である状態に戻らなければ、自分の中のごく当たり前の望みも叶えることは出来ない。



 


 そんな狭間に、たくさんのヒトがぎゅうぎゅう詰めでもがいている。




 とか、まあ、そんなことをバラバラ考える。