ねんねんさいさい

 ねんまつか。



 もう11月もあと十日をきったのことね。



 はやいはやい。






 ので、今年の出来事をちょっとずつ振り返ってみたりして。




 はんかち王子の子ぉが、人気の裏でぼろくそも言われとったなあ。まあ、人気ってそんなもんやろな。


 プロに行かず、当座は学生生活に勤しむ、ってのが、一部にはなんか気にいらんかったらしく、周囲でもガチャガチャ言うとったわ。


 「ずっとずっと一生一緒にいたいね」とゆーくらい大好きな彼氏とラブラブな女子高校生がいたとして、「じゃ、今!今すぐ結婚しよう!」て言われたら、「え?いや…、もうちょっと社会勉強してから…」とひくんじゃないんかなあ。そんな感じ?とか思ったし。第一そんなんは本人の勝手やんか。他人がガタガタ言うようなことなんかなあ。ほっといたれよ。





 あと自殺、多かったね。



 自殺って、一言で言えば「逃避」。


 この世で落とし前をつける力や手段が本人には、無くなった、見つけられなくなったから。


 

 だと思う。



 死ぬ勇気があれば、とか、死ぬ気で頑張れば、というセリフは適当でないように思う。



 あと、自殺未遂の経験者が、経験していない人にはわからない、と、まるで特殊体験をした選ばれた人間のように語るのもNGなんとちゃうか。



 あたし自身、自殺を試みたことが過去にあって、今の自分ではない自分が確かにそこにいたけれど、それだからといって、他の自殺者の気持ちがわかるかというと、そうも言われへん。だって、逆に今なんで生きているか、と問われても、その理由は人によってそれぞれ、全く同じではないはずやん。


 まあ、あたしの場合に限って言えば、何もかも、もう投げ捨ててしまいたくて、もう人の死をどうすることも出来ずに見続けることに耐えられなくなった、というのが大まかな理由だし、思いとどまったのも、もしかしてその思いを他人に転嫁して、この世から逃げるのはよくない、という罪悪感からやけどね。



 ヒトにはそれぞれの許容量があって、問題がそのヒトの許容量を超えてしまったとき、ヨソから見れば、どんなにしょうもない理由であろうとも、それが引き鉄となって、死に向かってしまうのカモシレナイ。

 
 その問題を共有してくれるニンゲンが他にいれば、許容量を超えずに済む場合もあるだろうし、別な視点から見て、その問題の解決法を一緒に見出せることもある、カモシレナイ。ただ、それは、実際には難しいかもなあ。


 当座の苦しみだけを消し去ることに集中してしまうと、本質的な原因には目が行かなくなってしまう。目ぇの端っこにはあるんだけど、誤魔化して誤魔化して、余計に苦しくなっていく。



 


 昔、あたしは無力だった。



 今だって、無力やけど。




 ただ、昔はできないことばかり目についてたような気がする。


 今はできることを探す気力はついたんとちゃうか。




 逃避してしまう子は、「できること」を見つける手段を持たなかったのかもしれへんな。



 探して、探して、見つけられなくて、力尽きたけど、その思いを遺書に託したのかもしれへん。



 遺されたもの達は、それを探す、探し続けることを供養とすべきなのかもしれへん。





 しれへん、ばっか。





 多分生きていく、ってことは、結果のわからない日常を繰り返していくこと。


 今、歯を磨くのをサボったことが、人生の終わりを迎えるときに、どんな結果をもたらすのか、誰にもわからない。


 今日、この服を選んで、無理して薄着で風邪ひいてもうたことが、吉と出るか凶と出るか、わからない。それで受験できなかったとして、他の学校や仕事に行くことになったことが、幸福だったのか、不幸だったのか。大好きなヒトと会い損ねたことが、一生の傷となるのか、それとも他の幸福な出会いを導くのか。




 そのときは超ラッキー!だと思ってたとしても。



 そのときは崖から突き落とされたような気分でも。





 それは、本当は途中経過に過ぎない。さっさと結論を導きたいがために、または、その最終結果が最悪だとしか思えないがために、自ら幕を引くこともあるかもしれへん。



 しれへんが多すぎっちゅうに。



 まあ、今年までの経過報告としてはですね。



 なんだかやるせない感じではあるんやけども、


 まだまだ手は残ってるで、ちゅうことで、



 来年もまたドタバタしそうやね。