カワイソウノコト?

 よそ国の人も多少そういうとこあるかわからんけど、日本人には「かわいそうなもの」「報われないもの」を愛する傾向が強いんとちゃうか、と思うことがよくあるん。



 「判官びいき」とかさ。「おしん」とかさ。



 バンドやシンガーでも、キーの合わないような苦しそうな歌声のひとが売れてたりする。


 結果として報われないことはあっても、キホンテキには報われるための努力をすべきやと思うんやけど、どう考えても報われるはずがないっちゅうか、報われないための努力に磨耗していく姿をいとおしむちゅうか。


 そういう不毛な嗜好を感じるときがある。







 姿が美しい、とか。声がやさしいとか。かわいらしいとか。




 そういう「愛される要素」の一つとして、「カワイソウ」が捉えられているんとちゃうか?と。




 そして、「カワイソウ」と口に出して言うことが、愛情深い、という表現の一つと思っているヒトが多いんとちゃうか、と。




 だから、迷路にはまって、すがるものが無くなったと思うときに、その客観的に「カワイソウ」な状態から脱却する努力よりも、その「カワイソウ」な状態を如何に確定させるか、に残りの力を注いでしまうヒトが多いんとちゃうか、と。



 「カワイソウ」なあたし、「報われない」あたし、ほらほら、こんなに世界の中心で、どうもがいても、出口を見つけられずにさ迷っているあたし。



 そういうの、好きでしょ?


 だから、見て。



 もう、どう努力したらいいのかもわからず、それでも健気にムダな努力をして、どんどん悩み、不毛な沼に音も無く沈んでいくあたしを見て。そしてカワイソウだと同情して。カワイソウだけど明るく振舞おうとしてる健気なあたしを愛して。




 




 そういう、ね、自己完結のみの、誰も自分も幸福にはできないけど、不幸を少なくとも自分だけはとことん酔わせる美酒とする、そんな危険な種子を。




 きっと誰もが心のどこかに抱えているんとちゃうか。




 そして、いっぺん芽を出し、蔓が延び始めると、つま先から頭の天辺まで絡まって、感覚を麻痺させる液体を分泌させるよな。




 そんな種子を。




 蔓が延びてしまったら、それを断ちきろう断ちきろうともがいても。もがかなくても。




 おそらく根絶することはむつかしくて。




 蔦の、葉の、蔓の間から、他の仲間を見て、



 ああ、あそこにも。



 愛すべき、愛されるべき、同志がいると、




 安心して、「カワイソウ」に浸り、依存しようとする。





 その中に、安心や安寧などはありはしないし、あろうはずもないのに。










 などと、餃子とビールを食らいつつ、考えてみた。




 タバコの先で、種子を、ケツの尾てい骨辺りから伸びてきとる芽ェをやね、



 ジュッて、



 焼きながら。