あいしてる

というと、いやーん。



きもい。



あたしの中で、「愛している」と、「LOVE」は、ちょと違う。



ちゃうねんけど、まあ、しゃあないから、ここでは、あたしのなかでの「LOVE」で「愛」を。




努力している人をあたしは愛する。



でも、努力していることに酔う人は、愛せない。



辿り着きたいところに、辿り着ける道を探し求めて止まない人。


ただ、闇雲に疲弊することに溺れる人。



ぱっと見ぃは似てるし、どっちが目的地に到達できるかも、運命次第なのかもしれへんけど。




あたしは、前者を愛す。




他の誰かがどう評価しようが、それは知らんけども。



自分の欲望や願望に対して、誠実であろうとするならば。



それに対して、思いつく限りの賞賛を。




それが、あるべき姿やと、あたしは。


























受験に対して、いまいちぴんと来ない子供。




「それやったら、もう学校辞めて働きなさいって言うてやったんですわ」




と、親。



あー、それマズイ。と、思うあたし。



多くの親はそれを言うねんけどな。うちの親も言うたけどな。




これがさ、中卒でがっつり働いてきた親が言うなら重みもあるねんけどな。



大抵が大卒で言うわけ。



自分の中に、最終学歴が中学という絵ぇがない。



つまり、言うて見たけど、そんな選択肢はない。



実際、子供が


「じゃ、進学しないで働く」といえば、



「未成年で、まともな仕事があるものか!」


とか、


「世の中のことも知らないくせに甘いことを言うな」


と、キレることも、子供にはバレバレなんである。


それに、具体的に実体験としてのネタを持っていないから反論しにくいけれど、親がそうそう総てにおいての「世の中」を知り尽くしているわけでもないことも、そういう子供は気づいてもいるし。





いかにもマズイ。




親が「AとBの二つの選択肢がある」と、子供に選択を突きつけるとき、


実際にはBを選ぶことはできへんことが多い。


「なんで素直にAと言えないのか」




だったら、中途半端に選べない選択肢をぶら下げなきゃええねん。




反論できる年頃になって、話を蒸し返せば、



「そういう言い方はしなかった」



とか、



「そういうひねた受け取り方をするお前に問題がある」



などと親は言う。



親にしてみれば、決して悪意があったわけでもなく、親のベクトルでのものの考え方や、自分の中での意識操作や記憶変換の過程が、子供のそれとは変わってくるから、どうしてもずれてくる。



それでええ、と思う。



そういうズレを感じることも必要なんとちゃうか。



そういうズレに、憤り、ぶつかってみたらええ、と思う。




自分以外のニンゲンとのズレとどう向き合っていくか、が、もしかして、生きていく中で一番やっかいな問題である気ぃもしてる。





親を交えて子供が口をとんがらかしてるとき、



子供がわき目もふらず勉強しているときよりも、愛すべき存在に感じたりする。




その口をとんがらしてたとき、自分がどんなことを考えてたか、感じてたか。





それを正当化したり、誤魔化したりしなければ、




結構いけてる大人になれるんやないか、とか。