愛ってなに?その2

そうなんよ。


なんかタイプミスってん、昨日。


そのあと、大好きな恩師から電話かかってきたん。


ずーとしゃべってたら、あんなことに。


あたしが心から「恩師」と呼べるのは、あのひとだけだろうな。


大正生まれ。


先生にとっては、かわいい孫みたいで、うれしい。



あなたがお元気でいてくださること。


あなたにご心配をかけないこと。


そういう気持ちで新年を迎えたいとか。

















京大の、細胞の話。



臓器移植が可能となってしまった時点から、もう避けられへんやろな、って思ってた。


しゃあない。



ただ、そのニュースで、公聴会かなんかに出席していてインタビューを受けてたおっさん(多分研究者)が


「自分もこんなインパクトのある発見をしたい」って言うたんが。


ああ、こんなバカばっかりやからアカンねん。




とか、書いてたら、メインが。






えーと。





社会という基盤の中で、人は「タブー」「禁忌」という境界を設けないといけないみたいです。



それは、「ニンゲン」と「その他イキモノ」であったり、


「自分たちの種族」と「その他のイキモノ」であったり、サマザマ。


ややこしいな。




いずれにしても、なにがしかの命を奪わないと生きていけないのがイキモノなので。



必要があれば殺生やむなしなので、それに罪悪を感じる必要は本来はない。


ところが感じてしまうのが、ニンゲンであり。



ニンゲンはそこに言い訳をつけなくては気がすまない。



そして、ニンゲンは存在事由を求めたがり。



ほら、もうだいぶわからんくなってきた。




ニンゲンはケダモノとちゃう。


と、信じたいとか。


哺乳類とその他で分けるパターンが多いみたいやけど。



ケダモノではない、という定義にも色々あって。


哺乳類を殺さない、とか。


食べる目的ではなく、スポーツの一環として狩りを楽しめる心の余裕がある、とか。


逆に、殺生を楽しみとしない、または心の痛みを覚える、とか。




いずれにしても、矛盾が生じるため、日常の生活から、排除しないと、苦しくてやってられへん。



それを思い出させるものは、すなわち悪であって、


しかし、排除してしまえば、不都合が生じるため、憎む。



人はケダモノでない、といくら思おうとしたって、



おそらく、ケダモノとしちゃ、かなり脆弱で劣等なケダモノでしょ。




ケダモノじゃないと思おうとする一方で、うすうす矛盾に気づいてもいるから、ケダモノにあこがれてもいる。



それで自分が思う「ケダモノ的」な要素や職についている人間を、貶めながら嫉妬してもいるから、憎む。憎むことで、自分にはケダモノの血は入ってないんだと知らしめたい。しかし、ケダモノの血が入ってなければ、実は種としての存続は望めない。





など。