今日くらいは
そんなことは忘れていようよ
と、
お盆も
正月も
なんかの記念日も
しょっちゅう言うてる気ぃする。
ヒトハワスレルタメニイキテイル?
少なくとも、忘れることができるから生きていられるんとちゃうか、と思う。
先日、「陵辱」について、ちょこっと書いたけど、
「その社会において、人間が持っているとされる当然の権利及び待遇」を敢えて無視することによって、
おまえは人間とみなされない
と、思い知らしめたい、のかもしれない。
確かに、それで相手の位置を貶めることは可能なのかもしれないけど、自分の位置が高くなるわけではない。
つまり、優等・劣等にこだわる割には、自分がより「優等」になることに力を注げないで、自分より「劣等」なものを作り出すことによって自分の優位性を示すことに力を注ぐ、というなんとも非生産的な、つーか、アタマ悪いなあ、困ったね。
そういうアホに陵辱されたところで、「おまえのかーちゃんデベソ」と、近所のくそがきに言われて落ち込むのがバカらしいのと、なんとなく世界が似ている。
大体セックスっちゅうのは
えーと。
れ?
ああ、自分的に話がそれた。
大体、このあたりの季節になると、重苦しい記憶がよみがえる。
しかし、それも、少しずつ薄れてきてはいる。
あのとき、瓦礫の中からみんなで拾い上げた子供のうちの一人は、
生きていたら、来年成人式だった。
その身体はまだ温かくて。
左の掌に、その子のおしっこが、温かくて。
霊柩車など、数が足りなくて、ゴミの収集車で運ばれた遺体もあった。
その子たちは、遠くの県からはるばるタクシーを呼んで、遠くの焼き場まで、はるばると運ばれていった。
「あんたが代わりに死ねばよかったのに」
瓦礫となった家の前で
そう、そこのうちの、寝たきりのおばあちゃんに叫んだ、親戚らしいおばさん。
誰もがショックを受けていたのは、
あたしたちが
この社会に生まれ育った人間だからだ。
この世に生まれたら、少なくとも成人までは親や社会の庇護の下ですくすくと育てられる権利を持っているはずだと、
死者は手厚く葬られるべきで、ゴミと同等に扱うなど、もってのほかだと、
そう教え込まれてきた人間だからだ。
救援物資の中に混ざっていた、使い古しの下着。
とか。
小学校に避難した友人は、
「女性だけ集まってください」
と、夜のグラウンドに呼び出され、
ボランティアに、
「じゃあ、私たちが立って目隠しになりますから、みんなでいっせいに用を足してください」と、普通に命令されたそうだ。
抗議すると、
「こんな緊急事態に、恥しいとか言える身分だと思ってるんですか。わざわざ来てあげてるんだから、余計な手間をとらせないで」
とか。
「良かった、自分にはそういうことが起こらなくて」と、起こった人の前でのセリフを耳にする。
とか。
こういうことを屈辱とか否定されたと感じるのは、この社会で生きている人間だからだ。
そして、これからも、きっとそういう気持ちを大なり小なり感じていくんだろう。
そういう思いを味合わせないように、と発想する人が多ければいいと思う。
そういう思いを、時々強烈に思い出して息苦しくなるけど。
そのとき、
忘れていたから思い出すのだ。
と。
忘れる瞬間があるから、思い出すという行為がある。
そうやって、心は生きているなら。
今日思い出したから、
明日くらいは、忘れていよう。
そうやって、忘れる日を作ってみる。