春過ぎるとき
四十は不惑らしい。
それを過ぎて随分経っとるのやから、泰然自若としてるのかというと、全然そんなことはない。あるわけないやん。
まあしかし、「ほどほど」ということは、ある範囲については身に付いた気もしないこともない。
昔のあたしは
ほぼ全て
なぜ?
で占められとったから。
もちろん、今でも
何でやねん
て、
四六時中思っている。
それでもやね。
昔は
なぜ明らかに矛盾した論理で自分や相手に接するのか。
を、手を変え品を変え、探ろうとして止まなかった。例えどれだけ傷つけ傷ついたとしても、どうだってよかった。ただただ自分がそれを甘んじて受け入れるための根拠を求めてた。
それは他人はもちろん自分にも当てはまることなので、労力を自分を含めた全てに対して強いてたんやろう。はた迷惑ちゃはた迷惑やね。
矛盾のない事象そのものはほぼ実在せぇへんので、酷い消耗感だけやった。
人はなんだかんだと言いつつ、自分にとっての「理想」を持っている。
苦しかったり、叶えられへんのは、
理想を叶えるには現実の条件が整ってないから。
だったら。
現実下の条件を一つずつでも揃えていくか、理想を可能なものに変更するしかない。
しかし、両者はけして近付かない。
そして。
その距離と不幸は正比例してるように思える。
あたしには、
あたしにとっての理想はないのかもしれない。
他人の理想そのものを否定するつもりは毛頭ない。
あたしが今も昔も興味があるのは
叶えるつもりがあるのかないのか。
あるならなぜ条件を整備することから逃げるんか。可能なこと、たくさんあるのに。
ただ。
今のところ、静観することにした多くは
どうも
当人の意識下にのぼっている「理想」と、
無意識に抱く「理想」とは。かなりかけ離れてるんかも。
そゆのは放置したい。
それか、ほんまにアホやからどうしようもないのかも。
それも放置。
結局のところ
納得できひんもんはせんでええやん。ええねん。
と、ちょっと開き直っただけ。それもはた迷惑ちゃはた迷惑やけどね。
それでも「納得したい病」は時々うずうず蠢いて
イー
てなるけど。
で、結論はなんやねん。
結論?
そんなもん、あるわけないやん。