ひょうり

小学校・中学校、どちらの図書室にも文庫本で太宰治谷崎潤一郎があったのは今思うとそれってどうなのどうなのよ。



チャタレー夫人の恋人とかもいいのか?



小一で夏目漱石のこころを読んでも、状況がわかるわけないやんな。

太宰治も小3やったっけ「このオッサン鬱陶しいヮ」くらいしか思えないわけですよ。鬱陶しいとか言いつつ学校にある作品は一通り読んだあたしも相当鬱陶し過ぎるガキである。


高校生になってからドリトル先生とかケストナーとか。



別に決まってないやろけど、それにしても読み方の順序を間違い過ぎとる。


関西で生まれ育ちながら関西弁があまり使えなかった。ていうか家で禁止されていた(意味がわかりません)。そして体も弱かったから行動範囲も人間関係もむちゃくちゃ狭かったので関西弁ネイティヴと会話する機会も割と限られてたし。


そゆわけで関西を離れて一時田辺聖子を激しく読んだ。恋愛がどうの、とかはともかく関西弁の解説が当時は新鮮やったな。




て、えーと。


ほんとは遠藤周作井上ひさしについてなんとなく考えてたんやけど、



なんでこんな書き出しからわけわからんことになったんやろ?



ああ、どっちも図書室で端から読んでったからか。



どっちもずいぶん長い間読んでへん。



どっちも好きかと言われるとそうでもない気ぃするし。


遠藤先生は苦手な気ぃする。「愛を求めてるのに愛されない私」ぽい暗さがユーモア小説にも漂ってる感じで少ししんどい。


ひさし先生は「愛にどうやって応えることができるのかでも応えることを忘れてつい自分の欲望に突っ走ってしまう」的イメージがあって、落ち込んでるときには余計落ち込むから、少しキケン。



とか、そんな昔の気分を思い出してたんやけど。








つづく。




たぶん。