読ぬ

 ミステリー小説はよく他から薦められる形で読む。



 それぞれ面白い。


 が、自ら進んで読むということは滅多にない。




 昔は、乱読の時代があり、学校さぼって、日に10冊以上読むこともあったけど、今は仕事の関係で、自分の楽しみの為に読むということ自体があまりなくなってしまったのもある。


 小説は読んだ後も気持ちを引きずるからなあ。さっぱり気持ちを切り替えられるものでないと、どうしても仕事に響く。


 勿論誰も死なないミステリーもあるけど、多くは誰かが殺される。どうして誰がどのように、殺したのか、延々考えたものを延々読むのは苦痛であると感じることもある。人殺しがエンターテイメントのスパイスだと思えない。読みながら、いくらあたしが気を揉んだところで、作中の被害者が助かるわけでもない。


 それは現実の中でいくらも経験していることであって、勿論現実では殺人じゃないけど、おそらくそうなるだろうという懸念があって、その運命を変えようとどれだけ必死になってもがいても結局はこの世に留めておくことができなかった無力感を、なんで娯楽の中にも見出さなあかんねん、と、ごっつう疲れてしまう時がある。


 

 なので、薦められたものも、ゆとりのあるときでないと、なかなか読めない。

 


 また、昔はともかく、今はミステリーとして読む、ということはほぼない。


 時代が違う、とか、良く知らない外国の小説であれば、ある程度ミステリーでありえるんだけども。それは、日常の中の常識が異なっているからである。日常の描写の中の異変に気づくのが遅れるので、ストーリーの先読みも遅れてしまうから。


 現代物ではそれほどどんでん返しであるとは思えないし。



 良くできた作品ほど、実際にはどんでん返しはない。話が暴走しないからだ。うまい作家ほど構成に破綻が少ない。



 一つには、一人の人間(作家)から作り出された人物で構成されているから、というのが理由として挙げられる。現実の人間のバリエーションからすれば、大幅に狭められるのは当然のことやろ。


 作家も人間やし、その登場人物それぞれに対する思い入れが、どうしても文中のリズムに顕れる。上手な人ほど、やはり一人一人に対しての人格や行動様式をきちんと練り上げてあるので、大変わかりやすい。

 そして、作家が「現実ではこうはうまくいかないけれど、小説の中でくらいは」と思うか、「現実とは結局こういうものなのだから」という世界観に基づいているか、などで、その登場人物たちがどういった運命を割り振られるかは自ずと決まってくる。

 あとは、作家の嗜好が分かれば、結末のつけ方も、最初の数ページでなんとなく。


 そうすると、食べ物と同じで、残したりできないので、自分の嫌な予感が当たっていくのを見せ付けられるようなんはパスしたい。せめて希望の残る結末でないと、読み終わった後味が悪くて口の中がじゃりじゃりして眠れなくなる。


 










 とか言いつつ、たまに筒井康隆をまとめて読んで、毒を喰らわば皿までな気分に浸るときもあるので矛盾してるけど。そのあと数日はどろーんとなって使い物にならないあたし。




 

 そういうわけで、先日伊坂幸太郎氏の作品を読んだら後味がさっぱりしていたので、ほっとした。



 読んだ後、ぐっすり眠れる本がいい、今日この頃。