えんきょくわいきょく

 直接議論に加わる気ぃはない。


 と、言いつつ、ここで書くと、最終的にそうなってしまうのかもしれないにょ。


 でも、今ここに書くことにこれ以上、あたしは何も言わんぞ、と。





 レイプ、の一番重い罪は、被害者の心を無視して行為に及ぶこと、だと思うねん。一人の人間やと思うてないから、そういうことができるんやろ。


 そして、セカンドレイプを引き起こすこと。


 当人を置き去りにして、色々な憶測が飛び交い、偏見の目で見られること。


 そして、そっとして欲しい心を記憶を、公衆の前にさらけ出されていくこと。


 そして、「社会的弱者」として、やはり一人の自立した人間としての存在を否定されること。哀れむべき存在として見られること。






 百人被害者が存在すれば、百種類のケースがある。


 そこにある条件も状況も、性格も価値観も宗教も、異なっている。



 そして、その一つ一つの事件に対して、その先の対策のあり方を問うていけるのは、当事者と当事者に直接関わっている人々のみなんである。



 それをひとくくりとして論じるとき、そこに論じるヒトの熱情がありすぎるとやっかいである。



 どちらも自分の主観や生理的嫌悪や、無意識の価値観を伴っているが、善意が前面に押し出てしまうと、さらにそれはお互いにとって、大げさに言うと「聖戦」であるから、禍禍しい敵を全滅させてしまうまで、果てしなく続く。



 聖戦であるから、そこに温度の違う言葉を浴びせ掛けると、「汚された」と、そちらにも矛先が向く。



 そこまではいい。


 いや、よくないかもしれないけど、まあ、勝手にすればいい。


 
 あたしが恐れるのは、どちらの善意が正しいか、決着がつかなければ、業を煮やして、審判として、当事者を引きずり出すことになりはしないか、という点。


 自ら「聖戦」に参戦するならまだしも、「善意」の名において、今また公衆の前に心をさらさなければならないヒトが生贄となることを恐れる。そこに「セカンドレイプ」が起こることを、恐れる。





 被害者を守りたいのに、自分の善なる熱情にとらわれて無駄な戦をしても、そこに生かされるニンゲンは存在しないように思う。



 大事にしたいのは、この場合、被害者の心なのか、自分の正義なのか、それをもっと心の中で区別をつけてから、議論に及んでも遅くはないんとちゃうか。



 急ぐべきは、議論じゃない。


 敢えて言うと、すべきことでもない。



 すべきことは、当事者がどんな結論を導いたとしても、それを受け入れる体勢を整えることとちゃうの?







 どうでもええけど、タイトルの意味がわからん、と思ったヒト。



 あたしもわからんから、気にせんといてください。