じゃこ天うま

ていうわけで、おやつにじゃこ天食ってます。


他の人がソフトクリーム食ってる中で、一人浮いている。


さてもう一仕事。

うち帰って元気が残ってたら続き書く。残ってへんかったら書かんと寝る。




 日付が変わった。くらいに帰ってきた。ただいま、あたし。



 頭いたいなあ、と思たら、雷が鳴ってるんやね。



 



 最近の教育の専門家の言うことって、アテにならんというか、話半分に聞きたい。



 食育とかもそやねんけど。食うや食わずで育った子供たちが現代の国家なり社会を作ったわけでしょ?そゆこと言うたら、どの社会もまず第1歩からなにもかもダメちうことやんか。朝飯のメニューだって、食えたらええやん、と思う。イモしか食わなかったら味覚が育たない、ていうなら、口減らしの為に奉公にあがって板前さんになった人々の中からは名人は出ないんとちゃうか。なんでもかんでも与えてやろうと親が気を回しすぎて、子供が欠乏感を認識できないまま育つことのほうに、あたしは疑問を感じるねんけど。



 欠乏感や飢餓感を満たそうとして、ヒトは自分の中や社会の中に色々な可能性を見つけていこうとするものだと思う。そういう個々の模索する能力を信じないで、上からアレコレ「与えて」しまうのは、結局「リアルのび太」を増殖させるだけとちゃうか(ごく少数派やろけど、あたしはドラえもんて好きじゃない。もっというと、ふじこふじおの作品全てもアニメを片手間に見る分にはいいけど、本を買ってまで読もうと思わない)。



 あたしの生徒になるヒトは、半製品というか、思春期くらいからなので、ある意味出来上がってきてるわけです。そこにある良いところも悪いところも含めてのソイツというニンゲンの魅力や適性が生まれてくるんやとあたしは思う。いびつな部分を、どう味わいに変えていくかが、ほんまの意味でのソイツにとっての闘いどころやとも思う。ソイツの手持ちの能力をどないしてソイツの希望に生かしていくか。能力・適性の現状と希望がかけ離れすぎていると判断したら、お互いの引き出しから妥協点を見つけていくか、新しいほかの可能性を提示していくか。または、あたしにはお金に見合う協力はできないのでリングを降りる事もある。


 しかし、教育のみを飯の種にしてるヒトは「リングから降りる」=「職を失う」と思ってるっぽいので、例えば占い師や拝み屋さんの多くと同じく、長く顧客を引っ張ることと、失敗は無かったことにする癖がちょっとある。そこらへんを認識しとかないと、えんえん健康食品にはまって、体を壊すように、子供を壊してしまうよ、と。




 なんとなくいいたいことはいったような気がするので寝る。