とまらんま
ひさしぶりにすらむだんくなど読んでる。
井上くんの作品が好きなのは。
まあ、単に好みやろけどね。
今の作品も好きだけど、スラムダンクが面白いのは、初めのよくある「一応描ける」感じから、どんどん絵がうまくなっていく過程ちうのもあると。
「完成した」というのは、きっと創る人にとって、褒め言葉ではない。
それは、そこがそのひとの頂点であり、もう目指すべきものはないようにもとれる。
その人は、もう成長しないのか。
褒められて。
え…、という顔をする。
と、謙虚だと、人は言う。
それはちゃう。
あたしが出会ったなかでは、少なくとも、自他共に認める謙虚なニンゲンなど、存在しない。
当人も謙虚であると思っているが、実はただへりくだっているポーズのみで、実際、本当に自分がダメだと思っているならば、報酬などを甘んじて受け取るのは厚顔であることに気がついてない、慇懃無礼なヒトが、現実には「腰の低い、謙虚なヒト」と、思われがちである。
今の自分には、これが精一杯ではあるけれども、本当に自分が目指すべき頂点には程遠い、と、思っている限りは、いくらでも成長もできるし、見てるほうも楽しい。前者は、付き合いで励ましても、だんだんうんざりしてくる。
dふぇも(タイプミス)、後者は「なまいき」とか、「意固地」とか、そういう感じで捉えられるみたいで、一般受けはしにくいみたいやのね。
だけど。
もうそこが、今の社会のイタイとこなんとちゃうん、と思う。
自分も、他人も、「完成して」終わった形を求める。
その過程こそが、個人個人のバリエーションを豊かにするはずのものなのに。
もう、死んでしまって動かない、
樹脂加工されて、自分自身はもう喜ぶことも悲しむこともできないのに、これから成長して新しい発見を自らなすこともできひんのに、朽ち果てていくことさえ許されない、「も」のつく国のもと王妃のように。
そういうのにはまだまだ早すぎるニンゲンで、この世はうめつくされているというのに。
中途半端なまま、蝋を流し込まれてしまった、そういう「ヒトガタ」には興味を持てない。
苦しませたいわけでもないけど。
だから、あたしなりのヒントは提示するやん、むかついてる相手であっても。
とか言うと、あたしがまるで慈悲深いニンゲンであるように誤解するヒトもあろうけど、
ただただ、
同じところを好んでからかどうかはともかく、ぐるぐるやってるやつは見てて、おもろない。
それだけだ。
そして、ビールは、めっちゃトイレ行きたくなる。
というわけで、もれそうやし、便所いきたいので、本日の更新はこれまで。
ただそれだけだ。