おると。
なんか順番が。
なんか忘れてた気ぃしててん。
そのじいさんには、
「あなたは阿修羅王だから火の中に入っていくのだ」
と、昔に言われたな。
阿修羅王は、へそを蚊ぁに咬まれたりはせんと思うよ。
割と最近、
「気が強すぎると、自分に厄災が降りかかってきますよ」と、言われた。
全然構わない、と答えたら、ムッとされた。
時々。
それが、いっそ自分に降りかかってきたことならば。
と、思う。
自分に直接降りかかってくるならば、
あたしは恨み言も言えるし、
弱音を吐くこともできる。
運命を呪って見せる事だってできるわけです。
逆ギレして周りに嫌われることもできる。
そのほうがラク。
ある時、携帯に着信歴。
ある子から。
さあ、これから、というときに、母親が倒れた。
と。
その状況は、あたしも経験済みで。
でも、その子の方が、より重い。
生きて植物状態、と、最初に感じたとき。
あたしは
そのお母さんの死を願った。
もうその先の状況がわかりすぎるほどで。
兄弟は
「辛くて、そばにいられない」と、
遠くの学校に進学して帰って来ないそうだ。
父親は、仕事から帰ってこなくなった。
そして、その子は。
家で母親の面倒を看ている。一人で何年も。
在宅でできる資格をコツコツととりながら。
まぶたしか動かせない母親。
もしも。
いっそ死んでくれたら、と、
思ってしまっても、
自分を責めたらあかんよ。
と、あたしは言った。
「まず自分が何をしたいのか、将来の自分がどうありたいのか、早く予定を教えて欲しい」
と、何人もの教授がその子に研究を続けさせたくて、言った。
何を馬鹿な。
予定など立つものか。
あの子が思い描いていた未来は、母親が日常生活を一人で営めるようになるか、死ぬか、でなければ、進めてはいけないのだ。
前者は、ありえない。
家族が逃げてしまった今、なおさら。
いつ終わるのかわからない。
緊張なんて続かない。他人だったら3ヶ月くらいが限度かな。
短い期間の患いで死んでしまったとしたら、
素直に悲しいと、
死んで欲しくなかったのに、と、
思えたのではないのか。
母親だって、まさか自分が子供の足を引っ張ることになろうとは、望んで倒れたわけではなく。
それも、十分わかりながら、
ああ、いっそあの時にあっさり死んでくれたら、
と願う自分自身に吐き気がし、
また、そう思わせる母親を憎む。
理不尽な憎しみと知りながら。
その一方で、
その死を恐れてもいる。
そういう中で突破口を見つけて、
もう一度、自分の未来を練り直すには、自分の方向性を初めから考え直していくには、膨大な葛藤やらなんやら必要なんだけど。
それを理解してはもらいにくい。
恨んだからと言って、愛情がないわけでもないこと、とか、
気づくまで。
自分が冷たい人間であるとか、ダメな人間であるとか、
そんなことを思わなくていいって、わかるまで。
吹っ切ったときに、できることが、あたしにはある。
つまり、
そういうことを
通り抜けて、いや、かなり道中は無様やってんけどね、今、それなりに生きているわけです。
だから、まあなんとなく、あたしは結局は強いねんな、と思う。
だから、厄災は来るなら、弱い人間のところやなくて、あたしのところに来ればいいのに。
その子も、そこそこ強いのかもしれない。
でも、あたしみたいに弱音を吐かないので、あたしよりも負荷は高いのとちゃうか。
多分、あたし以外の人の前では泣いたことがないやろ。
あたしは、その子が好きで、出会えたことを大切に思ってる。
その子以外の人に対しても、こういうことは起こって欲しくなかったし、これからも。
でも、起こってしまった。
そのとき、経験済みであることは、あたしにはまだしも救いやもん。
できることがわかるから。
何にもできずに、悶々としてるより、
わからないからといって、日常生活に追われて忘れたフリしてごまかすより、見てみぬフリするより、
ずっと心がラクやんか。
とは思うけど、ヒトの感受性とか、強さとか、はそれぞれちゃうので。
あたしんとこに厄災は来たらいいと思う。
そしたら愚痴をいいまくるし(今も言っています)。
キレまくるし(今もキレキレです)。
暴れまくるから(今も暴れてます)。
だから、ぜひ。
かもん。